黒川温泉の知名度は、有名温泉地がひしめく九州の温泉の中でも際立って高い。各種の温泉人気ランキングを見ても、必ずと言っていいほど上位につけている。 全国の温泉ファンに支持を広げる一方で、黒川温泉が地域振興の成功例という文脈で語られる場面が多いことをご存じだろうか。かつては阿蘇の秘湯として知る人ぞ知る存在だった黒川温泉の名を一躍全国に知らしめた「入湯手形」をはじめ、約2万本の植樹を通じた戦略的な景観形成、黒川温泉全体を1つの旅館に見立てた「黒川温泉一旅館」構想など、1980年代後半に端を発する多彩な独自施策が全国的な注目を集め、まちおこしに取り組む地方自治体や同業者が続々と視察に訪れてきた経緯がある。日経プラスワン温泉大賞、グッドデザイン賞特別賞、第1回アジア都市景観賞、ミシュランガイド・ジャポン(2つ星)などなど… 過去の受賞実績を眺めるだけでも、玄人受けする温泉地・黒川の実力が十分に伝わってくる。
コロナ後を見据えた「次の一手」
2021年8月、そんな黒川温泉から、新たな視察ラッシュにつながりそうなニュースが届いた。コロナ終息後を見据え、黒川温泉が目指すべき未来像を言語化した「黒川温泉2030年ビジョン」の表明である。 ビジョンの核心となるテーマは、「世界を癒す、日本里山の豊かさが循環する温泉地へ」。このフレーズの意味するところは何か? プレスリリースやホームページを読み込むと、黒川温泉を取り巻く阿蘇の豊かな地域資源を循環させることで、“お湯も自然も食も、そして人も。可能な限り廃棄を減らし、より豊かな状態で次世代に引き継ぐ仕組み”の構築を目指していることがわかる。注目すべきは、国内ではまだ実践例が少ないサーキュラーエコノミー(資源循環型経済)、つまり日本の地域おこしにおける必須科目となって久しい地産地消の考え方を一歩も二歩も進めた「地産地“循”」モデルの創造を見据えた、先進的な取り組みであること。新たな視察ラッシュを予感させる理由もそこにある。 とはいえ、早合点は禁物。まずは確かめてみることだ。福岡から車で2時間、温泉街のほぼ中央にあるインフォメーションセンターに着く。目指す観光旅館協同組合の事務所は、その2階。ビジョンの取りまとめ役を担った北山事務局長に、お話をうかがった。
北山 元(きたやま はじめ)
黒川温泉観光旅館協同組合 事務局長
島根県浜田市出身。熊本大学を卒業後、阿蘇カドリー・ドミニオンに入社。熊本地震の被災体験を経て地域振興への関心を深め、2017年7月、黒川温泉観光旅館協同組合へ。「資源循環型経済(サーキュラーエコノミー)モデル」の確立を視野に、地域資源を最大限に活用した社会的インフラづくりを推進している。
地域の資源を未来に活かす
「黒川温泉2030年ビジョン」では“循環”がキーワードになっているようですね。具体的な取り組みについて教えていただけますか。
- 北山さん:
- 現在進行中の取り組みでいうと、旅館の生ゴミを利用して完熟堆肥を作る「黒川温泉一帯地域コンポストプロジェクト」があります。スタートは2020年9月、堆肥で育てた野菜はとても美味しいと評判でした。お客様に喜ばれるから旅館は進んでその野菜を仕入れる、農家さんも旅館が喜んで仕入れてくれるから率先して堆肥で野菜を作るという好循環を巡らせていきたいと考えています。また堆肥自体の商品化に加え、阿蘇特産のトマト栽培に利用したり、地元・南小国町の地域事業会社との連携も進めている段階です。そのほか、特産のあか牛を食べることで草原を維持する「次の百年を作るあか牛“つぐも”プロジェクト」など、ビジョン実現に向けた取り組みは多岐にわたります。
まさに地循、地域循環型経済モデルですね。では、なぜ循環なのか、そもそもなぜこのタイミングなのか、ビジョン策定の背景をうかがいたいです。
- 北山さん:
- 発端は震災復興です。2016年の熊本地震では黒川温泉はもちろん、一次産業をはじめとする南小国の地域経済も大きな打撃を受けたことで、観光業における他産業への影響力の大きさを目の当たりにしたと聞きました。復興途上の2018年には、旅館組合、観光組合、自治会の三者で「黒川みらい会議」を立ち上げ、黒川温泉の枠にとどまらず、地域全体が目指すべき将来像について、サステナビリティやSDGsの視点も踏まえて議論。その中で見えてきたのが、地域と共に持続可能な温泉地を目指す方向性です。私が黒川に来たのも、ちょうどその頃でした。その後、コロナ禍でさらなる打撃を受けながらも未来を検討していく中で、黒川温泉を次世代に健全な状態で引き継ぐには、地域資源を利活用する従来型のモデルから、廃棄を減らし資源を循環させるサーキュラーエコノミー(循環型経済)モデルへの転換を進めるべきだ、と。こうした議論や実践を整理し、協同組合設立60周年のタイミングに合わせて取りまとめたのが、2030年ビジョンです。
当面の課題解決だけでなく、次世代まで見据えた長期的な施策なのですね。
- 北山さん:
- 多くの取り組みが、その観点から進められているといっていいと思います。現在進行中の入湯手形リブランディングもそのひとつです。
手形は1枚1300円で、黒川温泉の旅館が有する28か所の露天風呂のうち3か所に入れるという…
- 北山さん:
- はい、その入湯手形です。1986年に始まり2019年には累積販売枚数が300万枚に達しました。手形の材料は、従来は利用価値が少ないとされていた間伐材。これまでに20万㎡以上に相当する間伐材が手形に生まれ変わり、黒川温泉はもちろんのこと、小さいながらも地域経済に寄与してきたと思います。今後はこれに加えて、手形の売上の一部を景観保全や水源涵養といった環境整備に充て、地域の景観維持に努めていきたいと考えています。お客様から見れば、手形を買って温泉を楽しめば楽しむほど地域の景観や生態系が豊かになる。温泉の消費ではなく再生に資する仕組みにしていきたいと考えています。
なるほど、温泉の当事者だけでなく観光客も、ビジョンの実現に一役買えるわけですね。ところで、北山さんはキャリア採用だとか。どんな経緯で黒川に?
- 北山さん:
- 2017年、黒川温泉観光旅館協同組合では当時の代表理事の右腕を募集しておりまして、その募集を企画した担当者と知り合いだったことから、直接お声がけをいただきました。当時は阿蘇の観光施設に勤務しながら、地元のJC(青年会議所)に参加して地域活動にも取り組み始めていました。私は島根県出身で、熊本とのご縁は大学時代から。正直、阿蘇も黒川も遊びに行くところ、くらいの認識でしたが、熊本地震で生まれて初めて死を意識し、価値観が一変。阿蘇に骨を埋める覚悟で、震災復興と地域振興に力を尽くしたいという気持ちが固まっていたところに、お声がけいただいた…と、そんな経緯です。
里山の温泉地で暮らし、働くということ
仕事をする場所として考えた時、黒川温泉はどのように映りました?
- 北山さん:
- 観光客としても観光業界の一員としても、黒川ほど成功している温泉地は他にないと感じていました。お声がけいただいた時も、あの黒川に右腕なんて必要あるのかな?と思ったくらいです。もちろん震災復興という喫緊の課題に直面していたのですが、それを別としても、様々なニーズや課題があることを知り、やってみよう、と。
たとえばどんな課題が?
- 北山さん:
- 2020年から協同組合が積極的に取り組んでいるテーマになりますが、黒川で働く“人”の問題、端的に言えばキャリア形成の部分ですね。手形の運用など共通の課題解決については全旅館が一致協力する一方、料理やサービスなどの施策については旅館ごとに切磋琢磨するのが「黒川温泉一旅館」のスタイルです。人材の採用・育成といった人の部分は旅館ごとに取り組んでいましたが、コロナ以降、宿ごと(点)だけでなく、組合全体(面)で取り組む体制を作り、そのスケールメリットを活かした人材領域での活動を開始しました。その一つが2020年から次世代リーダーの育成をにらんだ「黒川塾」です。毎回十数名の旅館リーダーが受講し、手形の成り立ちや、草原とあか牛といった黒川ならではのフィールドワーク、個々のプロジェクト発表などを通じて、自分なりのキャリア像を見出す時間としています。同じく2020年に公式採用情報サイトを立ち上げ、人材の採用に関しても黒川温泉全体で取り組むプラットフォームが構築されました。
採用情報サイト立ち上げ以前と以後で、どのような変化が?
- 北山さん:
- 従来、採用活動はそれぞれの旅館が個別に行っていました。サイト立ち上げ以後も、募集や面接は個々の旅館が行っていますが、サイト経由の求職者に対しては、黒川で働くことや暮らすこと、地域の価値観などリアルな情報をしっかりと伝えられるようになり、ミスマッチが減ったように感じます。初年度というべき2021年は、サイトを通じて8人の採用につながりました。その8人には、個々の旅館の従業員であると同時に黒川温泉の一員でもあるという、地域同期としての意識が自然と培われていくのではないかと思います。彼らが今後、どんな化学変化をもたらしてくれるか、楽しみにしています。
最後に、黒川温泉で働きたいと考えている方にメッセージをお願いします。
- 北山さん:
- 組合では、旅館でのお仕事を通じて成長していただきたいと思う一方、組合での研修やイベントを通じてご自身の活動の場を広げていただきたいと考えています。例えば現在は「里山研修」といって、草原とあか牛を深く学ぶ研修や、どぶろく特区ならではのどぶろく試飲体験、その他春夏秋冬ごとの客室の施設を学ぶ「室礼研修」を行っています。旅館でお仕事をしながらも、ここでしか得られない体験を通じて、この地域を牽引する観光人材になっていただきたいです。黒川にはそのためのきっかけや成長機会が待っていますよ、とお伝えしたいですね。
(取材後記) 観光業界はコロナ禍によるダメージがひときわ大きく、全国どこの観光地も、業績低迷からなかなか抜け出せないのが実情だ。黒川温泉も例外ではないが、北山さんのお話をうかがううちに、どんどん気持ちが明るくなった。なぜだろう?と考えて、思い至った。「目線の長さ」だ。「黒川温泉2030年ビジョン」が見据えているのは、2030年のずっと先の次世代。震災復興とコロナ対応というダブルの課題に対応しながらも、20年先30年先、なんならそれ以上の未来をリアルにイメージさせる2030年ビジョンは、明るく前向きな希望に満ちている(そういえば“あか牛”プロジェクトも、「次の百年を作る」と謳っている)。 もうひとつ、北山さんに教わったサーキュラーエコノミー(循環型経済)の可能性の広さにも勇気づけられる。地域資源を廃棄せずに活かしきる。この発想に業界障壁はなく、地域格差もない。それどころか、歴史的にも産業構造においても個性的な地域の多い九州は、独自の循環モデルにつながる可能性の宝庫ではないか。黒川温泉に続く新たな挑戦が、九州のどこから生まれるか、楽しみに待ちたい。
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